2016年03月11日
東日本大震災・・・・あれから5年が経ちました。
Teddy'sFamily が『道の駅スタンプラリー』を始めるきっかけとなった出来事です。
当時のスタンプブックは、1冊につき100円の義援金がついての販売でした。
「出来ることから」との思いから購入!!
当時小学校2年の息子にも、
分らないまでも実際に被災地を見させておきたい。
被災地を訪れて、飲食をしたり買い物をしたり、
これだけでも支援になるのかな?と思ったり・・・・。
また地震のあったその日は停電があり、
明かりをとるために、使用したのがガスランタン。
いずれはキャンプをしたくて、
道具を一つ一つ求めていた物でした。
これを機に、テントなどの大物を求めやすくなったりして・・・。
おふくろにどう話そうかと考えていましたから・・・・!?
さて、現在震災の影響で休業している道の駅は、
岩手県の「高田松原」と福島県の「ならは」です。
「ならは」は、福島第一原発事故の影響ですが、
「高田松原」は、まともに津波をうけて建屋が被災しました。
被災前の写真は、ネットから探して拝借しておりますが、
そのほかの写真は、Teddy'sFamily が訪れた時に撮影したものです。
御覧の通り、道の駅自体は被災した時点のままです。
それにしても、津波の威力・・・想像を絶するものです。
駅舎前のアスファルト、通常の倍以上の厚さに敷設し頑丈にしていたそうですが、
駅舎を乗り越えてきた波が上空よりうちつけられて、
アスファルトは砕かれたそうです。
はじめてこの地を訪れたのが、2012年。
そのころの道の駅から見た市街地の写真です。
ここに、多くの人が生きていた町があったとは信じられない光景です。
一年経ってもまだガレキ処理をしていました。
2012年・2014年・2015年の移り変わり。
同じ地点からの撮影です。
少しづつですが、着実に復興が進んでいます。
町の南側にある岬を崩して、その土を運び嵩上げしています。
この土の運搬にダンプカーを使用すると、
一日に数千台での運搬が必要になるそうですが、
ベルトコンベアラインを建設して運搬しています。
運ばれた土で土地の嵩上げをし、新たな街を築きます。
本当に、街の土台となる部分ですね。
気の遠くなる話ですが、一歩一歩あゆみ進んでいるのが感じられます。
そして土地の嵩上げが終了次第、
道の駅を再建し「再開したい」と言ってましたが、まだまだ先のようですね。
さて道の駅敷地内には、
追悼施設・まちづくり情報館が建てられています。
まずは、
『合掌』、亡くなられた方々のご冥福を・・・・。
そして、未来の街が見れます。
あれから5年、もう5年、まだ5年・・・・。
着実に復興は進んでいますが、でもまだまだです。
復興が進んでいるところは進んでいるようですが、
一向に進まないところもあります。
福島に至っては内陸の方でも、
除染した土の詰まった袋が、町中に大量に野積みされているのを見ると
全然進んでいないのが分ります。
地域によって、温度差があるように見受けられます。
道の駅にしても、
今でも日本海側や内陸部の道の駅が
太平洋沿岸の道の駅を協力支援して盛りたてているようです。
震災後2、3年のころまでは、
ボランティアや多くの人が被災地を訪れ被災した道の駅でも大変賑わっていました。
いまでも被災地の道の駅ではそれぞれにがんばっているようですが、
訪れる人が減少していることは確かでしょう。
これからが、本当に長い支援が必要と思います。
もっと、もっと協力が必要な事でしょう!!
ここに本当に希望でいっぱいあふれる街ができ、
人々が集い幸せであふれる・・・その時までは。
(写真をクリックしますと元のサイズになります)
当時のスタンプブックは、1冊につき100円の義援金がついての販売でした。
「出来ることから」との思いから購入!!
当時小学校2年の息子にも、
分らないまでも実際に被災地を見させておきたい。
被災地を訪れて、飲食をしたり買い物をしたり、
これだけでも支援になるのかな?と思ったり・・・・。
また地震のあったその日は停電があり、
明かりをとるために、使用したのがガスランタン。
いずれはキャンプをしたくて、
道具を一つ一つ求めていた物でした。
これを機に、テントなどの大物を求めやすくなったりして・・・。
おふくろにどう話そうかと考えていましたから・・・・!?
さて、現在震災の影響で休業している道の駅は、
岩手県の「高田松原」と福島県の「ならは」です。
「ならは」は、福島第一原発事故の影響ですが、
「高田松原」は、まともに津波をうけて建屋が被災しました。
被災前の写真は、ネットから探して拝借しておりますが、
そのほかの写真は、Teddy'sFamily が訪れた時に撮影したものです。
御覧の通り、道の駅自体は被災した時点のままです。
それにしても、津波の威力・・・想像を絶するものです。
駅舎前のアスファルト、通常の倍以上の厚さに敷設し頑丈にしていたそうですが、
駅舎を乗り越えてきた波が上空よりうちつけられて、
アスファルトは砕かれたそうです。
はじめてこの地を訪れたのが、2012年。
そのころの道の駅から見た市街地の写真です。
ここに、多くの人が生きていた町があったとは信じられない光景です。
一年経ってもまだガレキ処理をしていました。
2012年・2014年・2015年の移り変わり。
同じ地点からの撮影です。
少しづつですが、着実に復興が進んでいます。
町の南側にある岬を崩して、その土を運び嵩上げしています。
この土の運搬にダンプカーを使用すると、
一日に数千台での運搬が必要になるそうですが、
ベルトコンベアラインを建設して運搬しています。
運ばれた土で土地の嵩上げをし、新たな街を築きます。
本当に、街の土台となる部分ですね。
気の遠くなる話ですが、一歩一歩あゆみ進んでいるのが感じられます。
そして土地の嵩上げが終了次第、
道の駅を再建し「再開したい」と言ってましたが、まだまだ先のようですね。
さて道の駅敷地内には、
追悼施設・まちづくり情報館が建てられています。
まずは、
『合掌』、亡くなられた方々のご冥福を・・・・。
そして、未来の街が見れます。
あれから5年、もう5年、まだ5年・・・・。
着実に復興は進んでいますが、でもまだまだです。
復興が進んでいるところは進んでいるようですが、
一向に進まないところもあります。
福島に至っては内陸の方でも、
除染した土の詰まった袋が、町中に大量に野積みされているのを見ると
全然進んでいないのが分ります。
地域によって、温度差があるように見受けられます。
道の駅にしても、
今でも日本海側や内陸部の道の駅が
太平洋沿岸の道の駅を協力支援して盛りたてているようです。
震災後2、3年のころまでは、
ボランティアや多くの人が被災地を訪れ被災した道の駅でも大変賑わっていました。
いまでも被災地の道の駅ではそれぞれにがんばっているようですが、
訪れる人が減少していることは確かでしょう。
これからが、本当に長い支援が必要と思います。
もっと、もっと協力が必要な事でしょう!!
ここに本当に希望でいっぱいあふれる街ができ、
人々が集い幸せであふれる・・・その時までは。
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